香川京子さんと吉永小百合さんが語り合う「78年前の沖縄戦と現在」 ひめゆり学徒隊の映画に出演した2人「大きな衝撃を受けた」


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 対談する俳優の香川京子さん(左)と吉永小百合さん(撮影・三浦憲治)

 太平洋戦争末期、米軍の上陸作戦に遭った沖縄で、看護活動に徴用された女子学徒隊にも多くの犠牲者が出た。学徒隊の一つが、教師と生徒合わせて240人のうち136人が死亡した「ひめゆり学徒隊」だ。俳優の香川京子さん(91)は1953年の映画「ひめゆりの塔」に、吉永小百合さん(78)は68年の映画「あゝひめゆりの塔」に、いずれも20代前半で出演。その後の生き方に影響するほど大きな衝撃を受け、学んだという。

 沖縄戦から78年。ロシアによるウクライナ侵攻など、戦争の危機が再び身近になった今、2人が映画の思い出や沖縄への思いを語り合った。(司会と構成=立花珠樹・共同通信編集委員)

 ―お二人でゆっくり会うのは、60年ぶりとか?

 吉永 17歳の時、月刊の映画誌の企画で「香川さんにお会いしたい」と希望して、ご自宅に伺ったことがあります。私が中学生の頃、香川さんが出演された「森と湖のまつり」を拝見し、透明感がすてきと憧れていました。

 香川 ありがとうございます。あれは、私が結婚する少し前でしたね。結婚したのは1963年11月でしたので、62年だったでしょうか。最近は年齢のせいもあって、周りの人がだんだんいなくなり、会いたいと思っても会えないことがあるので、こうして元気でお目にかかることができて、本当に幸せです。

 ―69年のTBSの東芝日曜劇場「水ぐるま」というドラマで、お二人が共演されたという記録が残っています。朝子さんと夕子さんという姉妹の役だったようです。

 香川 共演はこの1作だけで、ご一緒したのは覚えていますが、内容は忘れてしまったわね。

 吉永 私もバタバタしていた時代で、内容は覚えていませんが、石井ふく子さんがプロデューサーでした。香川さんは新東宝時代から石井さんとお知り合いだったんですね。

 香川 そうなんです。石井さんは新東宝の先輩の俳優さんでしたし、ずっと親友です。とにかく、そのドラマの時はゆっくりお話しする時間はありませんでしたね。

 吉永 香川さんの映画をたくさん拝見していますが、小津安二郎さん、溝口健二さん、黒沢明さんら巨匠の作品に、映画会社の枠を超えて出演されているのが素晴らしいです。私が日活に入社した頃は、五社協定という厳しいルールがあって、ほかの映画会社の作品に出演することができませんでした。香川さんは早い時期にフリーになられていたので、こうしたご活躍ができたのですね。

 香川 義理の叔父の永島一朗が新東宝の宣伝を長くやっていた関係もあって、早くフリーになり、そのおかげで今井正監督が東映で撮った「ひめゆりの塔」にも出演できました。撮影が始まったのは10月末でした。沖縄の春から夏にかけての映画を、冬の東京で撮り、しかも夜中に戸外で撮影することが多かったですから、寒さが一番大変でした。

 吉永 私の時は、撮影は夏でした。でも、水に入るシーンを撮った伊豆半島の湧き水は信じられないくらい冷たくて、震えました。そういえば、香川さんは「ひめゆりの塔」の撮影前に、今井正監督から作文を書くように言われたそうですね。

 香川 この映画に出る前は、戦争中の沖縄の実態を本土の私たちは全く知らされていませんでした。資料を読んで学び、監督さんからは「あなたの役がどんな人なのか、作文に書きなさい」と宿題を出されました。そのおかげで、役を演じる時は、その人の境遇や時代背景を考えなきゃいけないということを教えていただきました。

 吉永 私も「あゝひめゆりの塔」に出たことで、初めて沖縄の悲劇を学びました。同世代の和泉雅子さんたちと一生懸命に取り組み、あまりにつらくて平常心でいられなくなってしまいました。舛田利雄監督から「泣け」と指示されると、全員がわれを忘れて泣きました。その後、ひめゆり学徒隊の生存者の方が「悲惨すぎて涙も出なかった」と語っている記事を読み、あの演技は違ったのではないかと、ずっと気になっていたのです。でも、昨年、久しぶりに見た時には、あのときはああいう表現しかできなかったのだと思いました。

 ▽映画が教科書

 香川 吉永さんは「映画に出演して戦争について学んだ。映画が自分の教科書になっている」と以前おっしゃっていましたね。私も同じなんです。戦争中は東京の池袋に住んでいたんですが、女学校の1年生だった44年の暮れに茨城県に疎開し、終戦後の10月に東京に戻りました。帰ってきたら、自宅は無事でしたが、池袋の駅前が空襲で何もなくなっていて、びっくりしました。東京大空襲も知らないし、実際の戦争体験は申し訳ないくらいにないんです。だから、「ひめゆりの塔」に出て、戦争がどんなにひどいことだったかを知って、すごく衝撃を受けました。戦争と平和という問題を初めて意識するようになりましたし、1979年に、学徒隊の皆さんが34年ぶりに卒業証書を手渡された卒業式に参加させていただき、実際にお付き合いも始まりました。

 吉永 東京大空襲の3日後に代々木で生まれた私は、戦争の記憶はもちろんありません。でも、小さい頃は家の庭に防空壕(ごう)がまだ残っており、近くには空襲で家が焼けて大きな門だけが残った焼け跡がありました。母からは、代々木の周辺は3月の東京大空襲より、5月の空襲がひどかったと聞かされました。私にとって「あゝひめゆりの塔」や、原爆をテーマにした「愛と死の記録」、山本薩夫監督の「戦争と人間」に若い頃に出演したことで、とても大切な勉強ができたと思います。

 「あゝひめゆりの塔」に出演した後、まだ日本への返還前でパスポートが必要だった沖縄に1人で行き、ひめゆりの塔にお参りをしました。その後もずっと沖縄のことが気になっていましたが、野坂昭如さんが戦争中の沖縄の少年を主人公に書いた「ウミガメと少年」という童話を朗読したCDを、2006年に出すことができました。先日亡くなった坂本龍一さんと一緒に、20年のお正月に、宜野湾市でコンサートを開いたのも大切な思い出です。坂本さんのように、沖縄のことを皆で考えましょうと声を上げる方が、もっと増えればいいのですが。

 ―香川さんが出演した沖縄戦をテーマにした映画「島守の塔」が昨年公開。吉永さんが主演した新作映画「こんにちは、母さん」の公開も秋に控えています。この映画の中では、東京大空襲のことも扱われています。お二人ともずっと映画の第一線で活躍されていますが、演じることの魅力などを聞かせてください。

 香川 人前に出るのが苦手で、俳優になるとは夢にも思ってなかったのですが、映画界のいい時代に入れたんですね。17歳で入った映画の世界には、自由な雰囲気がありましたし、田中絹代さんや原節子さん、高峰秀子さんという先輩たちが、とても優しかった。そのお手本を見て、ここまでくることができました。

 吉永 私は高校入学と同時に日活に入社し、仕事があまりに忙しくて、高校を辞めるしかありませんでした。すごく残念でしたが、映画の世界でいろんな役をやらせていただいて、勉強したという思いはあります。撮影所には同年代の俳優が多くて、泊まりがけのロケ撮影の時には、修学旅行みたいに枕投げをして騒ぎました。学ぶという点だけでなく、遊ぶという点でも、映画が学校でした。香川さんがおっしゃったように、映画は夢を作る工場という雰囲気が残っているいい時代でした。

 ―香川さんは田中絹代さんと母娘の役を演じた「おかあさん」(成瀬巳喜男監督)を大好きな作品に挙げていらっしゃいました。吉永さんは、田中絹代さんの半生を描いた「映画女優」(市川崑監督)で、田中さんの役を演じられていますね。お二人の田中さんの思い出を聞かせてください。

 香川 「おかあさん」の前に、やはり成瀬監督の「銀座化粧」で初めて田中さんとご一緒しました。すごく丁寧な方でした。私はまだ若くて、演技も何も分からないのに、「京子さん、京子さん」とかわいがってくださいました。でも、カメラの前に立たれると、声をかけるのも、そばに行くのもできないほど、役になりきっていらっしゃる。こういう人が本当の俳優なんだ、すごいなあと思いました。

 吉永 私はNHK大河ドラマの「樅ノ木は残った」と朝日放送の「女人平家」という連続ドラマで、田中先生とご一緒でした。「女人平家」の時は、私は東京で1本、連続ドラマに出演していて、夜中に移動して、「女人平家」を撮影している京都の撮影所に入っていました。それで、どんなに朝早く撮影所に着いても、田中先生は先に来ていらっしゃるんです。きちんと衣装を着けて「おはようございます」とあいさつされるので、そのたびに、「わーっ、どうしよう」と思ったことを記憶しています。本当にきちんとしていらっしゃる方でした。

 香川 「おかあさん」の撮影が終わった後に、一度、鎌倉のご自宅に伺ったことがあります。高台の上に建っている立派なお家でした。田中さんは、戦後アメリカに行き、帰国した時に投げキッスをしたことで、すごく批判されたことがありましたね。「あの後、ファンレターが一通も来なくなったのよ。それで、ここから飛び降りちゃおうかと思った」と、まだ若くて何も分からない私に、そんなお話もきちんとしてくださったんです。

 吉永 これはじかに伺った話ではないのですが、晩年に目が不自由になられた時に「目が見えなくなっても、やれる役があるでしょうか」とお見舞いの方にお尋ねになったらしいですね。それくらい、俳優ということを考え続けていらした方だと思います。

 ―今の若い俳優にとっては、香川さんや吉永さんは、かつての田中絹代さんのような存在なのでしょうね。

 香川 どうでしょうか。今の若い方は、先輩とか、そういう感覚はないんじゃないですか。

 吉永 若い方とコンタクトを取るのが難しい、と感じることがあります。昔は同じ撮影所で育ったとか、映画界で育ったという共通点がありましたが、今はいろんな所で活躍されている方が集まってきますからね。若い人も、どうしたらいいのか分からないかもしれませんし、私自身もどう交流をすればいいのか迷ってしまい、寂しいなと思うことがあります。

 ▽触れ合い

 香川 撮影現場は楽しいし、カメラがあると安心感があります。でも、最近は監督さんがカメラの脇にいらっしゃらないでしょ。それは少し寂しいですね。

 吉永 そうですね。昔はカメラのそばにいる監督さんの目を見て、今の演技で良かったのかな、と感じ取っていましたね。私は古いタイプで、やはりデジタルよりフィルムの方が深みを感じて、好きなんです。俳優同士のコミュニケーションを含めて、手作りで力を合わせて作る映画というのが、なかなか難しい時代になってきたように感じます。

 ―コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻などもあり、将来に不安を抱く若い人も少なくありません。最後に、若い世代へのメッセージを。

 香川 自分のことばかり考えるのではなく、相手が困っていたら何とかしてあげようとか、相手の気持ちを察してあげる優しさを持ってほしいと思います。そうすることで、少し落ち着いた世の中になるんじゃないでしょうか。

 吉永 スマホやメールだけでなく、目と目を合わせて語り合う機会を、もっと持ってほしいですね。そういう場で、沖縄のことも日本全体のことも考えて、思っていることを声に出していく。それが大事ですね。防衛費の増額が大きく報じられている記事を新聞で読むと、私たちはこのまま黙っていていいのだろうか、と思います。

 香川 戦争がすぐそこまで来ている感じで、怖いですね。最近は「敵」という言葉をよく聞きますが、その敵ってどこなんだろう、と思いますし、敵を決めてしまったら、やっぱり戦争をすることになるんじゃないでしょうか。78年前の悲劇が二度と起きないように、何とかしなければという気持ちがあります。

 吉永 沖縄の方たちのかつての苦しみ、今の痛みを、皆が分かち合う。そうした気持ちを、私たちがきちんと持たなければならないと思います。沖縄の方たちにとっては本当に大変ですけれど、粘り強く前に向かって歩いてほしいという思いがします。これは沖縄の方たちにどうしてほしい、ということではなく、私たちの問題です。78年前にどういうことがあったかということを、若い世代だけでなく多くの人に知ってもらいたいですね。

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 「ひめゆりの塔」 1953年公開、今井正監督。前年4月に日本は主権を回復したが、沖縄は引き続き米国の施政権下に置かれた。沖縄戦の実態を初めて描いた映画は国民的共感を呼び、製作した東映の危機を救う大ヒットになった。香川さんは、空襲で両親を失い妹と2人でひめゆり学徒隊に加わる女学生上原文を演じた。共演は津島恵子さん、岡田英次さんら。

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 「あゝひめゆりの塔」 1968年公開、舛田利雄監督。「明治百年記念芸術祭」参加作品。沖縄は依然米国の施政権下に置かれており、ロケ撮影は伊豆半島などで行われた。吉永さんは、沖縄師範学校女子部の学生、与那嶺和子役。学童疎開船・対馬丸が米軍の攻撃で沈没した事件で母を失い、ひめゆり学徒隊に加わる。共演者は浜田光夫さん、和泉雅子さんら。

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 かがわ・きょうこ 東京都出身。1949年、映画界に入り、溝口健二、小津安二郎、黒沢明、成瀬巳喜男ら巨匠の名作に出演。映画遺産の保存にも尽力し、2011年に日本人初の国際フィルム・アーカイブ連盟(FIAF)賞を受賞した。著書に「ひめゆりたちの祈り 沖縄のメッセージ」。

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 よしなが・さゆり 東京都出身。1959年「朝を呼ぶ口笛」で映画デビュー。「キューポラのある街」などで国民的スターとなった。テレビドラマ「夢千代日記」がきっかけで原爆詩の朗読を始め、平和を願う活動を続けている。主演作「こんにちは、母さん」が今年9月、全国公開予定。