新藤悦子

etsukoしんどう えつこ、1961年 )は、ノンフィクション作家、ファンタジー小説家。愛知県豊橋市出身。津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業。1988年、情報センター出版局刊の『エツコとハリメ 二人で織ったトルコ絨毯の物語』でデビュー。

略歴

  • 1961年 愛知県豊橋市に生まれる。津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業。在学中から中近東に関心を持ち、トルコ、エジプトを旅行。
  • 1985年から86年にかけてトルコ、イランを遊学する。トルコのカッパドキア地方ギョレメ村にて、現地の女性ハリメさんの手ほどきを得て絨毯を織り上げる。この時の体験をもとに綴った初の書き下ろしが、『エツコとハリメ』。
  • 1987年、ソ連領中央アジアからトルコへと遊牧民の軌跡を追い、それをまとめたものが『羊飼いの口笛が聴こえる 遊牧民の世界』。以降若手のノンフィクションライターとして、著作を重ねる。
  • 2003年3月豊橋ふるさと大使に任命される。
  • 2005年5月 『青いチューリップ』が、第38回日本児童文学者協会新人賞受賞
  • 2006年5月 1996年日本ヴォーグ社刊行の絵本『空とぶじゅうたん』が、『空とぶじゅうたん1』『空とぶじゅうたん2』としてブッキングより復刊。

著書

  • 『羊飼いの口笛が聴こえる 遊牧民の世界』(朝日新聞社 1990年6月10日発行)
  • 『イスタンブールの目』(主婦の友社 1994年4月1日発行)
  • 『トルコ風の旅』(東京書籍 1996年5月24日発行)
  • 初のファンタジー絵本『空とぶじゅうたん』(こみねゆら挿絵 1996年11月20日 日本ヴォーグ社発行)
  • 『ギョレメ村でじゅうたんを織る――たくさんのふしぎ傑作集』(福音館書店 1998年9月25日発行)
  • ファンタジー『時をわたるキャラバン』(東京書籍 1999年7月2日発行)
  • 『青いチューリップ』(講談社2004年11月発行)
  • 『青いチューリップ、永遠に』(講談社2007年10月25日発行)
  • 『月夜のチャトラパトラ (文学の扉)』(講談社2009年11月11日発行)
  • 『ピンクのチビチョーク』(童心社2010年3月5日発行)
  • 『ロップのふしぎな髪かざり』(講談社2011年6月29日発行)
  • 『ヘンダワネのタネの物語』(ポプラ社2012年10月6日発行)
  • 『手作り小路のなかまたち』(講談社2062年6月発行)

チャトラパトラトルコ語翻訳版・前書き

トルコのみなさんへ
メルハバ! 新藤悦子です。
私は東京に暮らす日本人です。「日本人がどうして、カッパドキアの物語を?」とふしぎに思われることでしょう。これには理由があります。話せば長く、それこそもう一冊別の本になってしまいますが、かいつまんでお話ししましょう。
一九八五年の春から秋にかけて、カッパドキアのある村に、半年ほど滞在しました。村の女性と絨毯を織りながら、村人の生活の記録をとったのです。畑からとってきた草や根で糸を染めることからはじめて、一枚の絨毯を織りあげるまでのあいだに、村の人たちとすっかり仲良くなりました。結婚式にまねかれたり、犠牲祭をいっしょに祝ったり、女同士の話で盛りあがったりもしました。
イスタンブルからきた夫婦と友だちになったのも、そんな折りでした。彼らは村はずれにある洞窟つき廃屋を、ホテルに改装しようとしていました。ここはゲストルームに、ここはレストランにするつもりだ、と案内してもらいましたが、正直言って、こんな洞窟をホテルにできるのかしら、と半信半疑でした。
絨毯が織りあがったあと、わたしはカッパドキアを出て、隣国イランやトルコの別の村々を旅しました。やがて冬がきて、お正月が近づいたとき、知っている人たちの中で過ごしたいと思って、カッパドキアに戻りました。カッパドキアのその村は、わたしにとって第二の故郷になっていたのです。
数ヶ月ぶりに戻って、驚きました。村はずれの洞窟つき廃屋が一部改修されて、友だち夫婦が暮らし始めていたのです。わたしも泊めてもらいました。ここで暮らしながら、少しずつホテルを造っていくのだ、と言っていました。そして、その通りになりました。まずは洞窟レストランをオープンし、レストランを営業しながらホテルの部屋を整えて、宿泊客をとるようになってからも少しずつ部屋をふやして、何年もかけて立派なホテルに造りあげたのです。
カッパドキアに行くたび、わたしは彼らのホテルに泊まりました。それ以降、洞窟を利用したホテルがふえましたが、もとの洞窟だった姿を知っているのは彼らのホテルだけ。行くたびに違う部屋に泊めてもらい、この部屋はもともとあの洞窟のどこにあったんだろう、と想像するのを楽しんでいました。
ある夏、ホテルの部屋の窓からぼんやり外を眺めていて、奇妙な体験をしました。向かいに大きな岩があって、岩には窓のような小さな穴があります。洞窟です。それを見るともなしに見ていると、ふと、こちらも見られている感じがしました。目を凝らしてみましたが、人の姿は見えません。でも、何者かの気配を感じました。
(もしかして、何者か、いるのかな?)
そう思ったとき、わたしの中でチャトラパトラが生まれました。

そうです、この物語の舞台となる洞窟ホテルは、そのホテルがモデルです。ホテルの主人アタとアナは、友人夫妻をモデルにしました。
一人だけ登場する日本人ヨーコは、「あなたがモデルでしょ」と読者からよく言われますが、実はちがいます。わたしもヨーコ同様小柄ですが、わたしよりもっと小柄で、年上で、洞窟ホテルで知りあった画家の日本人女性がモデルです。彼女はヨーコのようにそのホテルに長期滞在して、カッパドキアの絵を描いていました。日本で個展を見に行ってびっくりしたのですが、彼女の背丈の倍もある大作を何枚も描いていたのですよ。
日本人でカッパドキアの虜になったのは、わたし一人ではないのです。

「チャトラパトラ」という名前は、トルコ語の辞書から選びました。「でたらめにしゃべる」という意味です。あとで翻訳家のエシンから教わったのですが、この言葉はブルガリア系のトルコ語だそうです。日本人の耳にも音の感じがいいと思って選びました。
少年カヤは最初、チャトラパトラたちが何をしゃべっているのかわかりません。わからない言葉は、でたらめにきこえます。それがある時、わかるようになると、でたらめじゃなくて意味のあるものになる。言葉って、ふしぎです。
同じ体験を、わたしはカッパドキアでしました。村で暮らし始めたころは、村の人が何を言っているのかほとんどわかりませんでした。だんだん耳が慣れて、話をききとれるようになると、村の人たちが言っていること何もかもに、意味があるとわかったのです。そのうれしかったこと!おもしろかったこと!

いつか友だちの洞窟ホテルを舞台に物語を書いてみたい、と思い続け、チャトラパトラがわたしの中で生まれたのをきっかけに、ようやく書くことができました。残念なことに、友だち夫婦はホテルを手放してしまいましたが、二人が築いたあの時間と空間は、この物語に収めたつもりです。他の誰にもまねできない、特別な時間と空間です。シェルミンとアッバス、あなた方二人にこの物語を捧げます。
そして、いつかこの物語がトルコ語でも読まれたら、と願い続け、翻訳家エシンのおかげでついにトルコ語の本になりました。これでみなさんにとってもこの物語は、「チャトラパトラ」ではなくなりましたね。エシンもカッパドキアの同じ村で過ごしたことがあった、とあとからきいて、人と人はふしぎな糸でつながっているものだなあ、と思いました。
わたしの本がトルコ語になっておそらく一番よろこんでくれるのは、古い友人のセラップでしょう。セラップ、長いあいだ応援してくれてありがとう!
親愛なるセラップ・エムレ夫妻、バフリエ・イルハン夫妻をはじめ、トルコで知りあい、お世話になったすべての人たちに、この場を借りてお礼を申し上げます。トルコをずっと好きでいられるのは、あなた方のおかげです。本当にどうもありがとう。

さあ、これで、どうして日本人のわたしがカッパドキアを舞台に物語を書いたか、わかりましたね? では、どうぞチャトラパトラの世界で、ゆっくりおすごしください。