「フラニー」は、1955年一月〈ニューヨーカー〉に掲載された。グラス家七人兄弟姉妹の
五男ゾーイ―(訳者により、ズーイ、ズーイーと呼ばれている)と末娘フラニーの物語であ
る。グラス家の家族構成については本書に詳しく書かれている。七人は、世界的に有名なボ
ードビリアンであった両親レスとベッシ―に生まれ、天才的頭脳をもち、美男美女の子ども
たちである。ラジオ番組『これは神童』で活躍していた。長男シーモアは若くして自殺して
いる。双子兄弟のうちウォルトは占領軍で日本駐在時に不慮の事故で死亡している。従って、
現在生存しているのは、長女ブーブー、次男バディ、ウェイカー、ゾーイ―、フラニーである。
本書は、序章的な役割を果たす「フラニー」と、母親ベッシ―、ゾーイ―、フラニーが作中
人物になる「ゾーイ―」の二部構成である。
フラニーは、大学で英文学を専攻し、演劇部に所属している。彼女とボーイフレンドでア
イヴィーリーグ大学生レーンの一日から始まる。週末の、イエール大学とプリンストン大学
のフットボール試合にあわせて、レーンがフラニーを駅に迎えに来ている。フラニーからの
手紙も駅舎で読み返してみた。手紙には、サッフォー以外の詩人は尊敬できない、と今後展
開していく芸術論の先行きが暗示されている。そして、会った瞬間から、二人の心理的なも
つれが感じられる描写になっている。フラニーが、心理的に「何か」に追い込まれている態
度をとることに、レーンが一向に理解を示さない。従って、最後までかみ合わない会話が続
いていく。「手紙ついた?」「どの手紙だい?」のやりとりに象徴されている。また、レー
ンに対して「会えなくてすっごく淋しかったわ」の発言に、「心にもないことを言ってしま
ったわ」と意識するほど、彼女の精神的な変調が現れている。変調は、レストラン「シック
ラー」での昼食時にクライマックスを迎える。フローベールの小論で「A」を貰ったレーン
は、その自慢話をしたくて饒舌になる。フラニーは「耳を傾けなければ」と思うが集中でき
ず上の空で聞いている。食事も、レーンの「蝸牛、蛙の脚」料理にたいして、フラニーは「
チキンサンドとミルク」で、それも食べられないほどである。二人の会話は、レーンの聞き
役でフラニーの「病」の原因が明らかにされていく。フラニーは「小さな陽光の温かな斑点
を見つめ、その中に寝転んでみたいという顔つき」になっている。
*「君の大学の英文科に優れた詩人で教授がいるね?」。二人の教授は「本当の詩人ではな
いわ」、「美しいものを何一つ残していないじゃない」。詩人については、サリンジャー中
篇『倒錯の森』が参考になる。おそらくフラニーが考えていたことは「詩を作る人」と「詩
を発見する人」の違いではなかったか、と思う。そして、学友については「かっこよく見せ
ようとするばかりで、みみっちくて、つまんなく、型にはまっているばかりだわ」と具体的
に「何が」不満なのか、個人的感情が優先してしまっている発言。会話を中断してトイレに
駆け込み「胎児のようにも見える姿勢」をし、五分間泣いていた。レーンは「胃の具合でも
悪かったの?」とフラニーの異変に気がつかない。
*「芝居のほうはどうなんだい?」の質問に、「演劇部はやめるの。自分が厭らしいエゴむ
き出しの人間」になっていく恐怖を感じている。「どこかに到達したいとか、何か立派なこ
とをやり遂げたい」とか、自分自身のエゴを強く意識し、それにうんざりしているのだ。
*「その本はなんだい?」と、彼女が大切にバックに入れ、持ち歩いている本について聞く。
トイレのなかで胸に抱いていたお守りのような本である。図書館から借りたという『巡礼の
道』。「ゾーイ―」で明かされるが、シーモアの机から持ち出した本だ。フラニーは、ロシ
ア人農夫が巡礼者になって「イエスの祈り」を繰り返す意味、その到達すべきところなどを
懸命に説明する。「この祈りを繰り返すだけで、祈る人の心臓の鼓動と連結し、何かが起こ
るのよ」。仏教の「ナム・アミダ・ブツ」を唱えることも同じだし、十四世紀に出版された
宗教書『無知の雲』にも同じことが起こると書いてあるし、インドの「オム」も同じよ、と。
レーンは「それでどんな結果が出るの?」と冷静に理論的に迫ってくる。青白い顔になっ
ていく彼女が「神が見えるようになるのよ」と言うと、レーンは「心臓がおかしくなったり
するのかい?」、「宗教的経験には心理学的背景がある」と神秘性を理解しない。フラニー
は立ち上がり気絶してしまう。レーンは「朝ご飯を食べなかったとか、そういうことなの?
」と、どこまでも彼女の精神的悩みを感知していない。
フラニーの病の原因は、大学をとりまく高等教育に対する不満、演劇に対する自分のエゴに
あり、それらの苦しみを『巡礼の道』という宗教書と「祈りを繰り返す」ことで解決しよう
と模索していたようである。
「ゾーイ―」は、1957年五月〈ニューヨーカー〉に発表された。次男バディが「グラス家
の記録映画」と書いているように、語り手はバディである。出演人物は、男一人ゾーイ―、
女二人、「いくたびか鼻をかむ癖」があるフラニー、古ぼけた家庭着を着ている軽演劇女優
タイプの母親ベッシ―である。舞台は、マンハッタンにあるマンションの五階。本編では、
序章でのフラニーの悩みに、ゾーイーがこたえ、フラニーを回復させていく内容である。バ
ディからの手紙を読み込み、自殺したシーモアの厚紙に書かれた「伝言」などを参考にしな
がら、説得していく。忘れてならないのは、ゾーイ―が有名なテレビ俳優であるということ
だ。愛する妹フラニーに対する様々な動作や声音などに「俳優」としての呼吸が感じられる。
バディが「純粋にして入り組んだラヴ・ストーリーである」と書いている。会話に宗教的な
側面が強く感じられるが、グラス一家で、神経衰弱におちいった末娘をなんとか救出してや
りたいという気持ちが読み取れる「愛情物語」である。「ゾーイ―」は、三つの構成から成
り立っている。 *「バディからゾーイーへの手紙」、*「ゾーイ―とベッシ―の会話」、
*「ゾーイーとフラニーの会話」である。
*1955年十一月、ゾーイ―は二十五歳、美貌でエスプリに満ちた顔つきをしている。浴室で
バディからの手紙(1951年三月十八日付け)を読んでいる。何回も読み返した形跡がある。
手紙から、フラニーを説得するにあたり、演劇や宗教について参考にするべく知識の補給を
しているのだ。
演劇について、お前(ゾーイ―のこと)は、俳優として資質が備わっている、とか、チェ
ーホフの『桜の園』での「本当の見事な演出」を観たことがあるのかい?、とか、お前は「
現代すでになくなっているものを期待している(お前がすべてのものに対して期待しすぎて
いる)、(お前が一つのものごとから欲深く成果を要求する)」など。これらの表現は、フ
ラニーが演劇を続けることを促し、「太ったオバサマはイエスだよ」、という慰めの言葉に
つながっていく。
宗教について、バディがスーパーマーケットで体験した少女とのやりとり(ボーイフレン
ドの名前に、ガールフレンドの名前も入っていたこと)に、教育とは「知」の獲得から始ま
るのではなく、「禅」でいうところの「無心(悟りの境地)」の追求する「非知」の獲得か
ら始めるほうがよい。従って、シーモアとバディは、ゾーイ―とフラニーに、「低次元の芸
術、科学、古典」よりも、宗教をまともに勉強すれば、「見かけだけの相違(男ともだち、
女ともだちの相違)」にとらわれないはずだ、ということで教育を引き受けたんだ。ゾーイ
―とフラニーは、兄二人の教育により、食事の前に「四弘誓願」を唱えなければ食事が喉を
通らないという。宗教教育が先行された二人は「畸形児」だと自認している。また、多くの
宗教家や教義を勉強しすぎたことが、フラニー自身「イエスの祈り」に集中できない理由か
もしれない。引き続いて、バディは演劇のこともゾーイ―に書いている。「技巧を超越した
美しい演技をするんだ」、と後にゾーイ―がフラニーにアドバイスする演劇論の一部になっ
ている。
*ゾーイ―が入浴していると、フラニーのことが心配になっているベッシ―が、いろいろな
口実をもうけて浴場へ入ってくる。「あんたはまだあの娘に話をしていないんだろう?」と、
新しい「歯磨き粉」やきれいな「タオル」を持ち込み、フラニーが「早く大学へ戻るように
説得してちょうだい」と繰り返す。そのための準備をしながら考えているゾーイ―にとって
は迷惑であるが、口論しながらも母親の気持ちをよく理解しようとしている。ベッシ―との
会話は、「髭剃り」から「爪やすり」を使う段階まで続く。『巡礼の道』の内容も説明して
やる。ベッシ―は、「チキンスープ」を飲んでくれない末娘が心配で、身近にいるゾーイ―
が頼りなのである。母親と息子の会話は、グラス家の温かい愛情が育まれてきたことを印象
づける、ユーモラスで感動的な時間である。「お前が早く結婚してくれるといいんだけど」、
「そろそろヘアカットをした方がいいんじゃないかしら」、「お前は肩幅がずいぶんひろく
なったね」など話を逸らすようだが「出かける前に妹と話をするつもりがあるのだろうね」
と念を押す言葉も忘れない。
*舞台は、浴場から「居間」に移動する。寝椅子には、フラニーが飼い猫「ブルームバーグ」
を抱き「こぶしを握って言葉なき抗議を示す幼児期の仕草」のような姿で寝ている。ゾーイ
―が葉巻をくわえ入ってくる。「じっとそこに立って眺めていた。それから優しく、葉巻を
持った手を妹の肩の上にそっと置いた」描写は、フラニーへの「愛情物語」の幕開けである。
俳優の役割を有効に使い、兄としての愛情がしみじみ滲み出るクライマックスへ通じる入り
口でもある。俳優の役割を意識しているのは、ゾーイ―の室内を歩く態度、窓外をなにげな
く見る姿勢、絨毯の上に寝転んだり、ピアノベンチで譜面をみたり、声の調子をベッシ―に
まねたり、会話と沈黙の「間(ま)」、顔の表情の変化などを巧妙に演出し、同時にフラニー
の顔色やしぐさが変化していくさまを観察している。
フラニーの会話は、序章「フラニー」で表現されている内容である。やり玉にあがるのが、
『宗教概論』を教えている「タッパー教授」である。オックスフォード大学からの「貸与教
授」らしい。「自分は悟っているようで、いんちきご老体、私を嫌っているようだわ」との
のしり、大学も「地上に宝を積む(マタイ伝6章19節)いかれ狂った施設にすぎないわ」、
大学で「知識が知恵に通じるという話は聞いたことがないわよ」など高等教育に対する反抗
である。
ところが、フラニーから「台本はどうなったの?」と質問がとぶ。この場面は「演劇部を
止めた」いうフラニーが演劇にまだまだ未練をもっていることを示す問いかけである。ゾー
イ―はフラニーの心理を読み計算しつくしている。テレビ仲間からの台本における自分の役
柄を説明し、フラニーの目線までなんとか降りていこうとしている。もちろん、ゾーイ―自
身も業界の「エゴ」を痛感したと発言たり、「おれと君は兄二人に畸形にされたんだよ」と
同情心をかい互いに慰め合うことも演技のうちだろう。三本の台本の役柄、「リック・チャー
ルズ」(浴場で読んでいた台本)、「多感な地下鉄車掌」、「若い農夫」などを説明し、精
神分析の用語、勇気と誠実さの重要性、巡礼者を思わせる話などをフラニーに聞かせたのだ
ろう。そして、5階の窓下の腰掛けに「まるでダンサーが特殊な姿勢を維持しているような」
優雅な恰好で、窓外の「少女と飼い犬」の光景を眺めながら「世の中には素敵なことがちゃ
んとあるんだ。ところが愚かにも脇道へそれていき、すべてを薄汚いエゴのせいにする」と、
ゾーイ―は「気難しい(苦み走った)顔」をしながら、徐々にフラニーの病巣に入りこもう
としている。
絨毯の上に仰向けに横たわったり(ゾーイ―が横たわる場面が多い)、突然立ち上がる滑
稽さを演出しながら、「まだお祈りは続いているのかい?」と「ロンドン上流社会風の重い
なまり」で質問する。この場面はまさしく映画のシーンだ。主演男優の発言の「間」の素晴
らしさがが観衆(読者)に響いてくる。バディが「映画」と言っていることも忘れてはなら
ない。宗教論争の幕開けでもある。「世界中でどの宗教にも、偽善を正当化するような祈り
はないんだぜ」と、フラニーが意味もなく祈り、寝椅子に猫のように寝転んでいる姿を批判
しはじめる。「そろそろ君の偽善が悪臭を放ち、独善的になって来た」「やるなら甘えられ
ない大学に帰ってやれ」と、横たわった胸の上で指を組み合わせたままいう。「君は10歳の
とき、マタイ伝21章12節、6章26節を読んで、イエスが嫌いになった、と仏陀の方に赴いた
のだ」。ゾーイ―は、フラニーが本当のイエスを理解しようとせずに、「イエスと聖フラン
シスとハイジのじいさん(ヨハンナ・スピリ『ハイジ』)とまとめて祈っている」ことを非
難している。そして、「神経衰弱にかかる原因がここにあるんだ」と結論付ける。イエスの
ことだけを念頭において「祈る」ように諭している。「エゴ」の問題も、「エゴ」の判断は、
「神が最終的な決定権をもっている」、と。
人生における「君の義務、日常の義務」をきちんと果たすことから逃避しているのではな
いか。たとえば、ベッシ―の「チキンスープ」をなぜ飲まない、レスも蜜柑を食べさせろ、
と気をつかっている。これらは神からの神聖な賜りものではないか。それを理解できないで、
どうしてイエスに祈ることができようか。ゾーイ―の宗教論はすんなり理解できるものでは
ない。ただ、妹への愛情をこめた言葉として考えればよいのではなかろうか。厳しい言葉を
投げかけたあと、「悪かったね、フラニー、すまなかったよ」と、シーモアとバディが使っ
ていた部屋に去っていく場面は、読者が感涙にむせぶにふさわしいシーンだ。
ゾーイ―は、シーモアとバディの部屋からバディの声色を使ってフラニーへ電話するが、
すぐに見破られてしまう。「低次元の精神的助言に限られてしまったようだ」とゾーイ―自
身がフラニーに説教するような資格もなく、内容が「低次元だった」と謙遜している。「イ
エスの祈りは唱えたければやりつづけたらよい」と言われたフラニーの心理は想像がつくだ
ろう。
フラニーは、「不自然なくらいしゃんと身体を起こし座っていた」と、ようやく、自分に向
けられた両親や兄たちの優しさを感じたのである。そして、演劇の世界でも、「アーティス
トが関心を払わなければならないのは自分自身にとっての完璧さ」であり、観客の馬鹿さ加
減をわあわあと言うべきではない。「太っちょのオバサマ」のために芝居をやることだ、「
太っちょのオバサマ」はキリストなんだ。フラニーは、両手で受話器を握りしめていた。そ
して、「夢のない深い眠りに落ちる前の数分間、彼女は静かにそこに身を横たえ、天井に向
かってそっと微笑みかけていた」。
本作品は、当時の大学教育への批判、宗教についての問題、芸術など、重いテーマではあ
るが、グラス一家の末娘への「愛情物語」「兄弟愛物語」として読まれるものだろう。シー
モアからバディへ、バディーからゾーイ―への手紙がフラニーの「病」を救う手段を果たし
ている。ただ、ゾーイ―が絨毯の上に横たわり、胸の上で指を組んだり、軽く手をポンと打
ったり、白いハンカチを頭に被る姿は、何を意味するのだろうか。イエスになったつもりだ
ったのか。「役者」としての効果をねらったのだろうか。
なお、詩について、チェコの詩人ヤン・スカセルが言っている。「詩は詩人たちが勝手に
作り出すものではありません。詩は遠い遠い昔から、そこにそのうしろのどこかに存在して
います。詩人は詩を発見するだけなのです」(ミラン・クンデラ『小説の精神』)。
訳本は、村上春樹、原田敬一、野崎孝を参考にした。各々素晴らしい感性で持ち味を発揮
した訳になっていると思う。三者の訳本をぜひお読みいただきたい。しかし、日本語に変換
されると、なぜこのような訳になったのか理解できない箇所があるはずだ。たとえば、仏教
用語の「四弘誓願」「四つの誓願」「四つの偉大な誓願」など。普遍的である「四弘誓願」
になぜ統一できないのか。「セクションマン」「特研生」など。「臨時講師」とは意味が違
うんだろうか。「貸与教授」「武器貸与プログラム」「貸与契約」など、「派遣教授」の意
味だろうか。『これは神童』『豆博士』『なんて賢い子ども』などにわかれている。理解困
難な表現や言い回しについては、三訳者本を読み比べるとわかりやすい。
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フラニーとズーイ (新潮文庫) 文庫 – 2014/2/28
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アメリカ東部の名門大学に通うグラス家の美しい末娘フラニーと俳優で五歳年上の兄ズーイ。物語は登場人物たちの都会的な会話に溢れ、深い隠喩に満ちている。エゴだらけの世界に欺瞞を覚え小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニー……ズーイは才気とユーモアに富む渾身の言葉で、自分の殻に閉じこもる妹を救い出す。ナイーヴで優しい魂を持ったサリンジャー文学の傑作。――村上春樹による新訳!
- 本の長さ292ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2014/2/28
- 寸法14.8 x 10.5 x 2 cm
- ISBN-104102057048
- ISBN-13978-4102057049
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2014/2/28)
- 発売日 : 2014/2/28
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 292ページ
- ISBN-10 : 4102057048
- ISBN-13 : 978-4102057049
- 寸法 : 14.8 x 10.5 x 2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 25,514位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1949(昭和24)年、京都府生れ。早稲田大学文学部卒業。
1979年、『風の歌を聴け』でデビュー、群像新人文学賞受賞。主著に『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞受賞)、『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)、『ノルウェイの森』、『アンダーグラウンド』、『スプートニクの恋人』、『神の子どもたちはみな踊る』、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』など。『レイモンド・カーヴァー全集』、『心臓を貫かれて』、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『ロング・グッドバイ』など訳書も多数。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年3月14日に日本でレビュー済み
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この言葉に出会ったとき、この小説に意味合いがはっきりとした。
自分ではなく、他人になりすますことが必要なのだと分かった。
宗教とはそういう側面もあるのだ。
非常に教訓的だった。
自分ではなく、他人になりすますことが必要なのだと分かった。
宗教とはそういう側面もあるのだ。
非常に教訓的だった。
2021年10月13日に日本でレビュー済み
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大学生の頃に読んだ時より遥かに読みやすかった。くどいところは徹底的にくどいが、この爽快さ何かな? 訳 村上春樹の力なのか、自分の人生の年輪からなのか? 何回読んでも最後が素晴らしい。
2021年8月19日に日本でレビュー済み
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村上春樹さん翻訳だからこそ読み易かったのかも知れない。
ズーイと母親との風呂場のやり取りシーンが好きでした。
最後、ふたりがシーモアの言葉を思い出してピタッと収まる感が最高。
ズーイと母親との風呂場のやり取りシーンが好きでした。
最後、ふたりがシーモアの言葉を思い出してピタッと収まる感が最高。
2021年8月15日に日本でレビュー済み
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著名な作家、作品なのでいつか読んでみたいと思っておりました。重い内容と構えていましたが、意外に軽めで読み進めやすかったです。
2021年5月15日に日本でレビュー済み
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とても良かったです。
内容はもちろん品質も良く、とても満足しました。
内容はもちろん品質も良く、とても満足しました。
2020年4月23日に日本でレビュー済み
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村上春樹さんの訳が、よりサリンジャーを立ちのぼらせたように思いました。
2014年4月20日に日本でレビュー済み
フラニーとゾーイって、そういやぁ、高校生ぐらいに読んでたけど、なんかキリストがどうのこうの言ってて途中でやめたな、という思い出しかなく、それ以来、「必死こいて読んだけど何かよくわからない作家」としてサリンジャーという名は記憶の奥底のライブラリーにしまいこんでいたのだが、ここへきて春樹の新訳が出たのである。フラニーとゾーイって、まずどんな話か知ってるだろうか。
ムズかしいわりに内容は恐ろしくシンプルなんである。怖いぐらい。
「フラニーっていう大学生の女の子がお兄ちゃんに元気付けられる」
要約すると。ほんと。たったこれだけ・・・
なんだけど、この元気付けられるプロセスが超へビィというか・・・
とにかくおおざっぱに言うと、このフラニーっていう大学生の(女優志望の)女の子が主人公なんだけど、突然家にこもっちゃうのだ。「もうあたし大学とか行かない!芝居もやめる!」つって。
「どうしちゃったのよフラニーちゃん、それよりチキンスープでも食べなさい」とか母ちゃんから言われても、「うるせーそんなもんいるかー、どっか行けー!」みたいな感じで。
なんでこんなことなったかというと、いわゆる思春期のはやり病とか、失恋とかそんなんじゃなく、「どいつもこいつもナルシーだ・・・」ということにフラニーはほとほと嫌気がさしたのである。
とくに大学なんかナルシストの巣窟だ。どこを見ても自分アピールしたいやつら、己のセンスを誇示したいやつらでいっぱい。彼氏はつまんなそうな論文読んで読んでとか言ってくるし、芝居やってるやつらは「有名になりたい」とかばっかりだし、現代でいうと、twitterのフォロワー数自慢してくるやつとか、就活のためにボランティアするやつとか、youtubeに自作の唄あげてるやつとか、まぁそういうやつらに対し、全方位的に、どいつもこいつも「アイタタターだ」とフラニーは思うのである。
・・・いやぁ、どいつもこいつもイタいやつばっかりで、なんか大学行くのイヤんなってきたな・・・センスもないし、ほんと大学ってつまんないな。みんな死んじゃえばいいのに。と思うのである。
しかしここがこの小説のミソなのだが、フラニーが何より憎悪してるのは、そんな自分の「いやぁそうは言うけど、あたしだって凡庸なことしたくないし・・・有名になりたい・・・他人からすごい褒められたいんだよね・・・」という自己愛であり、それにハッと気づいたフラニーは
「あああああああああああ、なんか違う!! そんなのピュアじゃない! そういう有名になりたいとか、そういうのは違うよね! なんか本物の芸術家ってそんなんじゃないよね。絶対。なんかもっと、こう、森のなかのきこりみたいな感じでさ、粛々と己の仕事に向かって、他人の賞賛なんか求めずに、ひたすら作品に情熱をこめるのが真のアーティストって感じするよね、するよ」みたいな。
「あああもうなんでこんなに有名になりたいとか、そんなこと思ってるんだろう・・。もう嫌だ・・・わたしのアーティスト像はそんなん違う。どうしようか。うん、もうなんかボヘミヤンみたいに、いろんなところ放浪して回ろうかな、いやそれただの自分探しじゃん。そこらへんにいるモラトリアム大学生まる出しだな。それはもっとイヤだな・・・。よし、こうなったらもう出家でもすることにする!(゚∀゚) ・・・」って思って、家に引きこもってしまうのである。
そこで母親が見かねて、フラニーのお兄ちゃんであるズーイに「ちょっとあんたあの子どうにかしてよ」って頼み込んで、ズーイも「仕方ねぇ妹のために行ってきてやるか」みたいにしぶしぶフラニーのとこ行くんだけど、
・・・ここでポイントなのはこの兄貴のズーイもなんと、フラニーと同じように、何かを「こじらせてる」のである。「どいつもこいつもセンスがねぇ」「画一的になりたくない」「オレはほかとは違う」
もうこんな煩悩でからめとられた、この二人、「こじらせ兄妹」なのだ。
「いや、お前の気持ちはわかるよフラニー、オレも今俳優やってけど今やってるテレビと映画なんてスポンサーや学校の教師に媚売ってるような、みんなクソドラマだぜ、ほんとに世の中ってのはバカだよな」みたいな。「俺はさぁ、いわゆるさぁ、すぐ外国に行きたがる、クリエイティブな人種が嫌いなんだよね」
「お兄ちゃん、聞いてよ。大学がつまんないのは、賢人とされてる人が、わたしのクラスでは株でもうけたどうしようもないローズヴェルト大統領の顧問なんだよ。ありえないよね。悔しいから、黒板にエピクロスの名前かきまくっちゃった」
こんなふうに、二人とも、おのおのに思い描く「センス」をもって他人を高みから「こいつもセンスねぇ、ありえねぇ」と審査する、あげくの果てには世に背を向けてすねちゃう、「インテリや、ミーハーなものをやたらと嫌いたがる」サブカル・アート系半グレ兄妹なのである。
ズーイもフラニーも俳優として「センスへの自負」「俗世間の嫌悪」「芸術へのこだわり」がハンパないので、ミーハー感覚からかなりグレちゃってるというか、
しかも子供んときに、テレビ番組に呼ばれて、天才や天才や言われて、もうそれがコンプレックスとなって、今日まで「世の中の連中は、みんなバカだし、おれ達はフツーじゃないんだ」というプライドを引きずったまま大人になっちゃった愛すべき自己愛こじらせ兄妹なのである。この二人のこじらせは「根が深い」のである。・・・・・・・・まるで自分を見るかのようだった。
「いやぁ、わたしだって有名になりたいし、人から評価されたいんだよ。でもそんな自分がいやらしくて恥ずかしい、たえられない。だから出家するんだ。イエスさまにお祈りするんだ」というフラニー。
フラニーはとうとう、あまりの自己愛の病に耐えられなくなり、出家して煩悩を捨てようとしていた。
しかしズーイの次の一言でフラニーは完全に論破されてしまう。
「いやフラニーおまえ、さっきから、宗教とかイエスとか言ってるけどなー、この家のなかで一番宗教的な行為を、おまえ見逃してんだぞ。わかんねーのか」
フラニー「・・・・?」
「いや、さっき母ちゃんがもってきたチキンスープ、おまえさっきいらんってしてたろ。あれこそ宗教的な行為だろーが、人に何かをあげるっていう、この世で最も神聖な行為を、おまえ見過ごしてんだぞ」
こういうことを言われ、フラニーだんまり。
「おまえはやっぱり芝居をやったほうがいいよ。才能もあるし」とズーイ。
「でも・・・どうすればいいの・・・・芝居やってても、みんなの自己顕示欲が気になるし、わたしだって有名になりたいとか、そういうの思っちゃうんだよ!」
「太ったおばはん」のことを考えろ。そういうときは、太ったおばはんがどっかにいて、その人が自分の芝居を楽しみに見てくれてると思え。その人のためにいい芝居をする、それだけを考えてたらいいんだよ」
まさにフラニーと同じ自己愛煉獄地獄をくぐりぬけたズーイならではの上級者のたしなみ「太ったおばはん解決法」なのであった。
これは自己愛の病に狂いとりつかれてあがきくるしむ者同士の対話を描いた、まさに自己愛文学だと思ったのである。
クリエイティブ系志願者もどきには、ちょっと胸に迫ってくる一冊なのよ。
ちなみにこの小説。兄のズーイから太ったおばさん解決法をおしえてもらったフラニーが「そっかー」と元気を取り戻しベッドに入って眠りにつく、という名シーンで終わるんだけど、野崎訳だと「しばらくの間、天井に微笑を向けながら、静かに黙って横たわっていたが、やがて深い、夢もない眠りに入っていった」(旧p230)とあり、フラニーが最後に眠るところで終わる。
しかし、春樹はここを「夢のない深い眠りに落ちる前の数分間、彼女は静かにそこに身を横たえ、天井に向かってそっと微笑みかけていた」と書き変えているのである。
春樹はここでフラニーを「寝ささない」のだ。そして「微笑」を最後に持ってきて終わる、ていう。
このラスト一文に、ボクは春樹の作家としての長い工程の末生まれた、凝縮された決めの一手を垣間見たような気がしました。
ムズかしいわりに内容は恐ろしくシンプルなんである。怖いぐらい。
「フラニーっていう大学生の女の子がお兄ちゃんに元気付けられる」
要約すると。ほんと。たったこれだけ・・・
なんだけど、この元気付けられるプロセスが超へビィというか・・・
とにかくおおざっぱに言うと、このフラニーっていう大学生の(女優志望の)女の子が主人公なんだけど、突然家にこもっちゃうのだ。「もうあたし大学とか行かない!芝居もやめる!」つって。
「どうしちゃったのよフラニーちゃん、それよりチキンスープでも食べなさい」とか母ちゃんから言われても、「うるせーそんなもんいるかー、どっか行けー!」みたいな感じで。
なんでこんなことなったかというと、いわゆる思春期のはやり病とか、失恋とかそんなんじゃなく、「どいつもこいつもナルシーだ・・・」ということにフラニーはほとほと嫌気がさしたのである。
とくに大学なんかナルシストの巣窟だ。どこを見ても自分アピールしたいやつら、己のセンスを誇示したいやつらでいっぱい。彼氏はつまんなそうな論文読んで読んでとか言ってくるし、芝居やってるやつらは「有名になりたい」とかばっかりだし、現代でいうと、twitterのフォロワー数自慢してくるやつとか、就活のためにボランティアするやつとか、youtubeに自作の唄あげてるやつとか、まぁそういうやつらに対し、全方位的に、どいつもこいつも「アイタタターだ」とフラニーは思うのである。
・・・いやぁ、どいつもこいつもイタいやつばっかりで、なんか大学行くのイヤんなってきたな・・・センスもないし、ほんと大学ってつまんないな。みんな死んじゃえばいいのに。と思うのである。
しかしここがこの小説のミソなのだが、フラニーが何より憎悪してるのは、そんな自分の「いやぁそうは言うけど、あたしだって凡庸なことしたくないし・・・有名になりたい・・・他人からすごい褒められたいんだよね・・・」という自己愛であり、それにハッと気づいたフラニーは
「あああああああああああ、なんか違う!! そんなのピュアじゃない! そういう有名になりたいとか、そういうのは違うよね! なんか本物の芸術家ってそんなんじゃないよね。絶対。なんかもっと、こう、森のなかのきこりみたいな感じでさ、粛々と己の仕事に向かって、他人の賞賛なんか求めずに、ひたすら作品に情熱をこめるのが真のアーティストって感じするよね、するよ」みたいな。
「あああもうなんでこんなに有名になりたいとか、そんなこと思ってるんだろう・・。もう嫌だ・・・わたしのアーティスト像はそんなん違う。どうしようか。うん、もうなんかボヘミヤンみたいに、いろんなところ放浪して回ろうかな、いやそれただの自分探しじゃん。そこらへんにいるモラトリアム大学生まる出しだな。それはもっとイヤだな・・・。よし、こうなったらもう出家でもすることにする!(゚∀゚) ・・・」って思って、家に引きこもってしまうのである。
そこで母親が見かねて、フラニーのお兄ちゃんであるズーイに「ちょっとあんたあの子どうにかしてよ」って頼み込んで、ズーイも「仕方ねぇ妹のために行ってきてやるか」みたいにしぶしぶフラニーのとこ行くんだけど、
・・・ここでポイントなのはこの兄貴のズーイもなんと、フラニーと同じように、何かを「こじらせてる」のである。「どいつもこいつもセンスがねぇ」「画一的になりたくない」「オレはほかとは違う」
もうこんな煩悩でからめとられた、この二人、「こじらせ兄妹」なのだ。
「いや、お前の気持ちはわかるよフラニー、オレも今俳優やってけど今やってるテレビと映画なんてスポンサーや学校の教師に媚売ってるような、みんなクソドラマだぜ、ほんとに世の中ってのはバカだよな」みたいな。「俺はさぁ、いわゆるさぁ、すぐ外国に行きたがる、クリエイティブな人種が嫌いなんだよね」
「お兄ちゃん、聞いてよ。大学がつまんないのは、賢人とされてる人が、わたしのクラスでは株でもうけたどうしようもないローズヴェルト大統領の顧問なんだよ。ありえないよね。悔しいから、黒板にエピクロスの名前かきまくっちゃった」
こんなふうに、二人とも、おのおのに思い描く「センス」をもって他人を高みから「こいつもセンスねぇ、ありえねぇ」と審査する、あげくの果てには世に背を向けてすねちゃう、「インテリや、ミーハーなものをやたらと嫌いたがる」サブカル・アート系半グレ兄妹なのである。
ズーイもフラニーも俳優として「センスへの自負」「俗世間の嫌悪」「芸術へのこだわり」がハンパないので、ミーハー感覚からかなりグレちゃってるというか、
しかも子供んときに、テレビ番組に呼ばれて、天才や天才や言われて、もうそれがコンプレックスとなって、今日まで「世の中の連中は、みんなバカだし、おれ達はフツーじゃないんだ」というプライドを引きずったまま大人になっちゃった愛すべき自己愛こじらせ兄妹なのである。この二人のこじらせは「根が深い」のである。・・・・・・・・まるで自分を見るかのようだった。
「いやぁ、わたしだって有名になりたいし、人から評価されたいんだよ。でもそんな自分がいやらしくて恥ずかしい、たえられない。だから出家するんだ。イエスさまにお祈りするんだ」というフラニー。
フラニーはとうとう、あまりの自己愛の病に耐えられなくなり、出家して煩悩を捨てようとしていた。
しかしズーイの次の一言でフラニーは完全に論破されてしまう。
「いやフラニーおまえ、さっきから、宗教とかイエスとか言ってるけどなー、この家のなかで一番宗教的な行為を、おまえ見逃してんだぞ。わかんねーのか」
フラニー「・・・・?」
「いや、さっき母ちゃんがもってきたチキンスープ、おまえさっきいらんってしてたろ。あれこそ宗教的な行為だろーが、人に何かをあげるっていう、この世で最も神聖な行為を、おまえ見過ごしてんだぞ」
こういうことを言われ、フラニーだんまり。
「おまえはやっぱり芝居をやったほうがいいよ。才能もあるし」とズーイ。
「でも・・・どうすればいいの・・・・芝居やってても、みんなの自己顕示欲が気になるし、わたしだって有名になりたいとか、そういうの思っちゃうんだよ!」
「太ったおばはん」のことを考えろ。そういうときは、太ったおばはんがどっかにいて、その人が自分の芝居を楽しみに見てくれてると思え。その人のためにいい芝居をする、それだけを考えてたらいいんだよ」
まさにフラニーと同じ自己愛煉獄地獄をくぐりぬけたズーイならではの上級者のたしなみ「太ったおばはん解決法」なのであった。
これは自己愛の病に狂いとりつかれてあがきくるしむ者同士の対話を描いた、まさに自己愛文学だと思ったのである。
クリエイティブ系志願者もどきには、ちょっと胸に迫ってくる一冊なのよ。
ちなみにこの小説。兄のズーイから太ったおばさん解決法をおしえてもらったフラニーが「そっかー」と元気を取り戻しベッドに入って眠りにつく、という名シーンで終わるんだけど、野崎訳だと「しばらくの間、天井に微笑を向けながら、静かに黙って横たわっていたが、やがて深い、夢もない眠りに入っていった」(旧p230)とあり、フラニーが最後に眠るところで終わる。
しかし、春樹はここを「夢のない深い眠りに落ちる前の数分間、彼女は静かにそこに身を横たえ、天井に向かってそっと微笑みかけていた」と書き変えているのである。
春樹はここでフラニーを「寝ささない」のだ。そして「微笑」を最後に持ってきて終わる、ていう。
このラスト一文に、ボクは春樹の作家としての長い工程の末生まれた、凝縮された決めの一手を垣間見たような気がしました。